「七島い」の伝来

 霊元天皇の寛文3年(西暦1663年)今から330年前。
その当時、府内城下桜町(現大分中央町)に「橋本屋」という粗物(あらもの)を扱う豪商があって、府内藩の御用商人でもあることから、商用のため薩摩には、ひんぱんに行き来していた。
 そこの4代目の当主(あるじ)八郎右衛門の弟、五郎右衛門(28歳)が商用のため薩摩に出向いたとき、たまたま、琉球から渡来した”草むしろ”という物を見て驚いた。
 その草むしろは府内で売られている”カヤむしろ”に比べ、青々として色・艶があって手ざわりも良く、弾力性に富、何とも言えぬ良い香りがするものであった。
 「これはすばらしい。何と言う草か知らないが、カヤとは問題いにならない。カヤのかわりにこの草を用いたらもうかること間違いないだろう・・・」と、商人らしいカンで五郎右衛門はすっかりこの琉球の青い草のとりこになってしまった。
 そこで、五郎右衛門は、八郎右衛門と相談のすえ、単身で琉球へ渡ることとなった。
 その当時の琉球は、1つの王国であったが薩摩藩の支配下(植民地)でもありまた中国(清国)の支配も受けるといったぐあいで、幕府のきびしい鎖国政策のもとでは、琉球へ密航することは容易なことではなく、命がけの大冒険であった。
 一大決心をした五郎右衛門は、薩摩に出向きその足で一隻の船を買い求めて、夜いんにまぎれて一人で琉球へ向かうこととなった。
 よく天候を見定めての出帆ではあったが、運悪く翌朝未明より激しい暴風雨に見舞われて、小船はさんざんほんろうされ、船酔いに苦しみながら生きた心地も無く、五郎右衛門は船底にうずくまってしまった。
 小船は思うがままに流されていたが、嵐が止んでみると幸運にもある小島へ流れ着いていた。
 五郎右衛門は、この島へ上陸し、やっとの思いで人家にたどり着き、島人と片言を話すうちに七つの島からなる一つだということが分かった。
 そして、五郎右衛門が捜し求めていた「青くて長い草」のはえていることも分かった。
 だが、この草をもらえないかと言うと、島人はガンとしてこれを拒んだ。島外へ持ち出すことは「ご法度」とされていたからである。そこで五郎右衛門は考えたあげく、竹の節を抜いてその中にこっそり苗をおさめ、杖のかわりとして何くわぬ顔で持ち帰ったのである。
 こうして苦心したあげく手に入れた貴重な苗ではあったが、栽培方法をきいていないため残念にも枯死させてしまった。
 五郎右衛門が落胆したことは言うまでもないが彼の素志は屈せず、ふたたび島を訪れた。
 今度の公開は順調に行き、島に留まること数十日、栽培方法を学びとり苗はひそかに盗んで前と同じように竹の杖に画し持ち帰った。
 そして石城川(大分県狭間町)、別の説では内城村(別府市)に植え付けたのが始まりと言われている。

 

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協力者:水上畳店